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2009.08.31 Monday
贅沢遊び
私は手仕事を追い求めて仕事をしているくせに、手仕事は苦手である。 お裁縫などとんでもない。雑巾も縫えない不調法ものである。 けれども、ボタン付けやほころびの繕いくらいはする。 その程度だから、ホテルのアメニティとして用意されている裁縫セット程度で充分のはずがそうはいかない。 携帯用の小さな裁縫セットをずっと作りたいと思っていた。 どうでもいいようなものほどちょっと気に入ったものが欲しい。 ある時、京都で橋村さんに紹介されたとき、この人に作って欲しいと思った、念願の裁縫セットを。 橋村さんは橋村萬象先生の弟さん。 橋村家と言えば、私の知る限り最も長い歴史を持つ家業を守って、今もそれを次世代へ伝えることのみを大切に誠実な仕事をしていらっしゃる。 何しろ、後鳥羽上皇のお使いになるお道具の発注書が残っているくらいだから。 宮廷の木具を作る家として御木具師橋村家と呼ばれる。 初代は平城京のころと言うから、日本史をひもとくような気になる。 木具師としては四軒あったそうだが、東京遷都とともに三軒は江戸に移り、橋村家は京都に残った。 今、木具師として存在しているのは橋村家一軒である。 宮廷の道具作りから、今は茶道のお道具が中心。 檜や杉などの白木の水差しや茶器、菓子器など。 わかりやすく言えば曲げわっぱに似た作りだけど、実用の世界の道具とは一線を画した造形美である。 日常の道具ではないから、少し緊張感を持って使わなければならないが、それが所作の美しさを育てると思う。 萬象先生の作品は、まさに、日本の美の極み。 質素な工房に機械と呼べるものは何もなく、使い次がれてきた原点のような道具たちを手の一部のように使いこなして作られる白木の道具。 手に取るとすっきりとした中に微妙な加減があることに驚かされる。 いつか、こんなお道具を身近に置きたいものだと思うが、まだまだ。 こんながさつな暮らしの中では、申し訳ないと思う。 けれども、何か。 萬象先生の弟さんである佳明さんは、お茶道具以外のものへのチャレンジをしてみえる。 もしかして、とお願いして出来たのがこの裁縫セットなのである。 シガレットケースくらいの小さなサイズ。 でも、お茶道具と同じ丹念さで作られ、秋田杉の木目がそろい・・・ 中に、下手なものは入れられない、と探して見つけた手作りの和鋏。 針山と、針のたとうは市松人形館の斉藤さんの仕事。 糸巻きは、もちろん、橋村さんの作。 贅沢きわまりない裁縫セットが出来上がった。 大切に大切に使おうと思う。 橋村さんに、作っていただいた、携帯用の化粧道具入れ(上右) 蓋付き鏡は手のひらにすっぽり収まるサイズ。
2009.08.29 Saturday
縞縞
九州に小倉クリエーションという会社がある。
縞縞という、ゾリッとエッジの効いた縞木綿を作っている。 この縞を初めて社長である渡部さんに見せてもらったとき、身震いした。 それほどに、完成度の高い布だ。 小倉織という布の存在を知ったのもその時である。 江戸時代、徳川家康も狩りの時は小倉袴を愛用したと言われるほどしなやかで丈夫な縞木綿。 小倉は近代になって霜降りのグレーの夏の学生服の布も作っていた織物の産地だった。 いったんその伝統は途絶えていたが、染織家の築城則子さんが復元された。 築城則子さん自身の作品は、草木染め、手織りにこだわった帯や着物地などで、工房へ伺ったとき手織り機にかけられた経糸があまりに密で美しく、さわったらハープシコードのような音が響くのではないかと錯覚した。 一日に何ほども織り進まない根気のいる仕事だろうに、紡ぎ出される縞模様は緊張感が途切れることなく。 彼女自身の美意識から来る色使い、縞のデザインは精密で簡単にまねられるものではないと思った。 縞縞は、その築城則子さんが、縞のデザインと監修をして機械で織られた広幅の布である。 インテリアファブリックスとしても使えるように今は140cm位の生地幅で織っている。 伝統工芸そのものである小倉織を今の時代感覚で使えるように作り方を変えるしなやかさが好きだ。 不易流行とはこんなことを言うのではないかしら。 とりあえず、風呂敷に。 色使いによってはたいそうモダン。 男前な布だ。 いつだったか、打合せ資料をこの風呂敷に包んで、人形町、六本木、それから・・・と持ち歩いていたら、一日に、見知らぬ人から3回も声をかけられた。 いい風呂敷ですね、と。 それが皆若いお嬢さんだった。 小倉クリエーションは築城則子さんの妹さんの会社。 元気印の渡部社長、一生懸命な人だ。 九州の小倉から、発信を始めてまだ数年。 けれども、その布への評価は驚くほど高い。 9月30日から10月6日まで東京で展示販売会がある。(三越日本橋本店5F Jスピリッツ) もっともっとこの布の良さを使って知って欲しいと思う。 紛れもなく日本の一級の素材だと思うから。 2009.08.26 Wednesday
フォトグラファーの眼
廃校を撮り続けている久野充敬さんという三重県在住のフォトグラファーがいる。
もう、40年近く付き合ってもらっている友人だ。 インテリアの仕事の現場は、全てと言っていいほど久野さんに写真で記録してもらってきた。 現場が、北海道から九州まで、距離をいとわず引き受けてくれた。 一つの目で記録することに私がこだわってきたからに他ならないが、現場写真といえども、彼の視点に信頼をおいてきたからだ。 写真の力というものに驚かされたのは木村伊兵衞の写真を見てからである。 地方の古い民家の何の変哲もない塀の写真だった。 ただ、少し傷みかけた塀。 けれども、撮る人の洞察力によって、こんなにもただの塀がものを語りかけるものかと驚いた。 ある年、彼の年賀状は廃校の写真だった。 役目を終えて、あとは朽ちていくのだろうか。 彼が、凪という雑誌に書いた文章がある。凪よりの抜粋・・・ ─ 私たちがこの校舎たちの撮影を始めたのは何も「懐かしき木造校舎」といったノスタルジーを写真に残そうとした訳でも木造校舎にこだわった訳でもなかった。この校舎たちの今の姿は日本の地方を象徴する姿、昭和と言う時代を地方に暮らす人々の生き様を見たからだ、ある小学校の校長室には「学校設立嘆願書」と校舎の建設風景を撮影した古い写真が残されていた。その嘆願書には、校舎の建設資金は地域の共有財産である村有林を処分してその資金に充てる、建設は労力奉仕でこれに当てる、赴任する教員の給料は、村で半分を負担するなどの過酷なまでの思いが込められていた。地方も国も、もちろん国民一人一人が当然のように貧しかった時代に、その嘆願書にはいかに子どもたちが学ぶこと,学ばせることに情熱を持っていたかが、そして学ぶ事を食べるよりも優先しようとした意気が伺い知れる。 中略 写真を撮る者として,この学校たちを見つめシャッターを押す時、どんなにその校舎が朽ちていようとも、それが廃墟にはみえないのだ。たとえ残されているものが二宮金次郎像の土台だけだったとしても、そこには子どもたちの「わるさ」の跡や先生たちのそれを叱る声、それを見守った地域の大人たちの今が「気」として漂っている。ならば、廃墟としてではなく残されたものとしての今の美しさを見つけ出しフィルムにとどめておこう、そんな思いでシャッターを押し続けた三年間だった。 ─ 廃墟になって朽ちゆく校舎の姿は、今の日本の地方の姿にどうしても重なってしまう。 あの、学校設立をこころから願った親たちのいた日本と、その心根は朽ちつつあるようにさえ感じる。けれども、また、どこかでそれが芽吹いていて欲しいとも思う。 今でも、時折久野さんに無理を言って撮影をお願いしている。 20代の時から、60代の今までずっとある距離を置いて記録し続けてもらってきたことになる。 仕事の表現は随分変わってきたことと思う。 けれども、何も説明せずとも、撮ってもらった写真(今は画像)を見ると久野さんはちゃんと私らしい側面を切り取ってくれているのに驚く。 ある意味で、久野さんは私に伴走してくれているのかもしれない。 誰もいなくなった教室 こんな廊下をぞうきんがけ競争したっけ・・・ こんなプールは私たちの時代にはなかった これはどこの廃校だろうか
2009.08.24 Monday
ザ・マイスター
京都の伝統工芸の仕事に携わる人々のサポートの仕事を始めてもう何年になるだろうか。
それぞれのプロジェクトによって繊維だったり、陶器だったりいろいろ。 昨年から取り組んでいるのは、陶器、金属工芸、表具、指物、漆器、団扇、扇子など。 最も、印象深く思った作り手のことを書こうと思う。 京指物の作り手の方々をインタビューしたとき、ほとんどの人々が一目置いて尊敬している人がいた。 どの人も、福原さんは凄い、と。 当初予定にはなかったが、その福原さんに会いに行った。 町中と言っても、ちょっとはずれた古い家並みの中に、福原さんの家がある。 玄関はいると、すぐ横が仕事場。 京都では珍しくないが、ほんとに狭い。 画像が、かなり接写状態になっているのは距離がとれなかったから。 昭和7年生まれの福原得雄さん、京都の有名な桐箪笥の会社で25年以上も、一級の桐箪笥を作ってきた。 今も、桐を中心に家具や、茶室関係の仕事が多い。 炉縁、文箱、手元箪笥、干菓子盆等。 頑固一徹を形にしたら、福原さんになるのではないかと思う。 でも、どこか可愛くて、話している間に少しは、こいつものが見える、とでも感じてくれたかお顔が笑顔になった。 次々と作品を出してくださる。 2階から、箪笥の引き出しから。 けれんみの無さ、とでも言おうか。 直球の仕事で勝負する、そんな頑固な意気込みがどの作品にもあふれていた。 何の装飾もない文箱などは、神々しくさえ感じた。 福原さんの作品は、たくさんの木工品が並んだところに展示されても、おそらくは普通のお客様の目にとまりにくいだろう。 ほんのちょっと余分なことがしてある方が、一般には評価されやすいから。 けれども少しでも、ものや人への洞察力のある人ならば、わかるはずだ。 しゃれっ気はない。 しかし、人の気づかぬところへの配慮や工夫が福原さんの誇り。 こんな人が、京都の町には埋もれている。 なんとか引っ張り出してあげたいと思うが、今のところいい知恵が浮かばない。 今、売れるような品をと思っても、福原さんの仕事ぶりではマーケットに合わせにくい。 今のマーケットに、と考えるとき、ものの洞察力のある人が、丁寧にお客様に伝えてくれるだろうか。 また、長年、お客様に直接注文をもらって仕事をしてきた人たちが、誰に、という顔を見ることの出来ない商品は作りにくいだろう。 福原さんに喜んでもらうことはまだ私には出来ていない。 それが、今私の気持ちの中に少し重りになっている。 福原得雄さん ザ・マイスターだと私は思う 小引き出し 無駄のない作り 2009.08.20 Thursday
風土・暮らし・美しきもの
TVをつけたら世界遺産で、ポンペイの遺跡をやっていた。
何度も見ているけど、やはり凄いものが残っていたものだと思う。 今日のは、ダイジェストの番組だったけど、いつか特別番組か何かでじっくり見たことがある。 建築の間取りの取り方や、タイル貼りの壁面、床の装飾など、興味が尽きない。 ちょっと曖昧な記憶だけど、住まいの間取りなどに、すでに風土への配慮が特徴的に現れていたように思う。 何度もイタリアは仕事や旅行で訪れているのに、ポンペイはまだ行ったことがないのが残念だ。 いつか必ず。きっと行く。 仕事がインテリアや、住空間が本業であるせいか、民族と風土、住まいの形、住まい方などに興味が特にある。 イエメンの塔の町、中国のハンカトン、どこの国だったか地中に掘り下げていった集合住宅等々。 こんな興味の最初のショックはもう何十年前になるだろうか。 大阪は千里の万博会場跡に出来た民族学博物館へ行ったときが最初だったと思う。 アフリカの東側、スワヒリ語圏の住宅が再現されていた。確か円錐形に近い形だったと思う。 その中には、生活道具などが展示され、それらに施された装飾性にショックを受けたことを覚えている。 そのショックに誘発されて随分アフリカというタイトルがあれば本を読んだものだった。 そして、アフリカの一民族にとどまらず、世界の国々、どんな民族であれそれぞれの装飾の形を持ち、風土と生活や宗教観などが密接に絡み合い文化を築いてきたのだと認識した。 まるで、少数民族のドキュメンタリーフィルムの中にいるのではないかと錯覚を起こしたのがイランの遊牧民、カシュガイ族のキャンプを訪ねた時。 30代の終わりくらいだったと思うから、20年以上も前。 カシュガイ族の織るギャッペと呼ばれる絨毯の虜になりそのふる里を見たかったのが旅の動機。 ジープで、道無き道を走ること何時間か。ようやく着いた夏のキャンプ地は、荒れ野に色とりどりの絨毯がまるで花のようだった。 羊の毛でざっくり織った黒い布のテントに何枚も絨毯が敷かれそれがお家。電気もガス、水道もなく。インテリアの仕事で必要と考えていたものは、人本来生きるのに何もいらないのだと知った。 けれども、そんな仮設テントのような住まいでも、それぞれのテントは綺麗にしつらえてあるのだった。 夜具や衣類を入れる行李は、家族の分きちんと並べられ、キリムのような布できっちりと包まれ、その上には又カラフルな模様の長い枕がまっすぐに揃えてあり、生活の規範を感じたものだ。 人が人である、と言うことは実は生活の場を美しく整えると言うことではないかと思っている。 それは、アートや、デザインの勉強とは無縁の人々に教わった気がする。 そしていつも、そんな発見をするたびに、自分の中におごりがないかと少し反省する。 とぎすまされたデザインやアートも好きだ。 けれども、魂を揺さぶられるのは、風土から自然に醸成されてきたものたちの中により多くある気がしている。 2009.08.17 Monday
いつの間にか原点
台風が通り過ぎて数日、風がここちよく家の中を吹きわたる。
風の通り道を考え、窓を開けたらエヤコンを一度も使わなかった。この夏初めてだった。 ホームページ用の資料を作りながら家にこもっていた。 陶器の作り手、漆、布、木工、金工・・・ 気づかぬ間にこの10年でおつきあいの範囲が広がり、それもかなり密なやりとりをしてきたことに驚く。 その全てをのせるわけではないけど、かなり最近のおつきあいの中から、私の意見を反映して出来たものを中心にピックアップしている。 言葉がきっかけでイメージが広がったものや、作り手の作品のあるがまんまの中からぴんと来たものなど。 それぞれのやりとりを思い出しながら、その人を紹介する文も少し付け加えたいと思っていると、これがなかなか時間がかかる。 ある人が言った。 「田中さんは、やりたいことの話をしていると必ず、ものつくりの人々を紹介したい、と言うことに帰っていくね」と。 それで初めて気がついたのである。 私はもの作る人々が好きだ。ものも好きに違いないが、それを作る人の方に興味がある。 昔、20代のころ工芸のギャラリーとショップをやっていた。 そのきっかけは、インテリアの仕事だった。お箸一本もインテリアじゃないかな、と思ったのだ。 それは今の言葉だとライフスタイルということかな。 日常の器を中心に、手仕事で日本各地の作り手に会い、教えを請いながら作ってもらっていた。 土瓶作りの名人がいた。 三重県伊勢の神楽窯の奥田康博さん。奥田さんは土瓶ばかり作っているわけではない工芸作家だったが、何とも使い勝手の良い急須や土瓶だった。 ほうじ茶はたっぷりと湯を注いで、大きな湯呑みで飲みたい。 奥田さんの急須、土瓶はたっぷり、ゆったりとしていて、大きいのに重く感じなかった。 勢いよく注ぎ口からお茶がでるが、その注ぎ口と、湯の溜まり加減が絶妙のバランスでいい加減のお茶の香りと味を創り出していた。 機能一点張りではないおっとりとした中に野性味があって、今手元にないのが残念に思える。 そしてその土瓶や急須がその作り手にそっくりなお顔。 土瓶の人相? ちょっと斜めからものを見てみると愉快な発見も多かった。 ものは人也、又人は作品也、そんなことに気づいたのもこの時代だ。 この20代のころ、自ら、日本中の作り手を訪ね歩き、もの作る姿を見せてもらい話を聞き、自分の基礎が出来たのかもしれない。 それは自分の中でも大きく揺さぶられることも多かったとみえ、「作り手・使い手」という小冊子まで発行するに至った。その頃のお客様の手元にはどこかに残っているかもしれない。 こんなことを考えてみると、結局、自分の原点に近いところに返ってきたようだ。 意識せず目の前にあることをしてきただけだけど、自分の軌跡を不思議に思っている。 伊勢・神楽窯の奥田康博さん 平成11年にお亡くなりになったと知った。 写真は神楽窯ホームページより拝借 この方の、土瓶、急須は今でも名品だと思っている。 度重なる引っ越しで、行方しれず。 JUGEMテーマ:人生論 2009.08.15 Saturday
益子の一日
昨日益子へ行った。お茶遊びの師匠である大高さんと上海からの客人パンウェイさんと坂田甚内さんの桜杜工房へ。
宇都宮へ着いたのは昼過ぎ。台風一過の焦げそうな暑さ。鉄板の上の餃子の気分。(餃子に気持ちを聞いたことはないけど) 逃げるようにタクシーに乗る。タクシーの運転手さん、益子は不案内なのか、何度も道を間違え大幅に時間をオーバー。(もうろくしてるのかと心配になってタクシーカードを見たら私と同い年・・・?!) 今回の訪問は、6月に、大高さんに同行して上海へ行ったとき、11月にセラミックアートフェスティバルが開催されることを聞いたのが発端。 坂田先生を推薦し、その件で上海から窓口になっているパンウェイさんが来日されたというわけ。坂田先生は陶芸家というより、土を素材としてのオブジェ作家といった方が近い。 土だけに限定するのも違う。硝子や、漆なども自在に表現の素材として使うから。 それらの作品はこの上なくエネルギーを発し強烈な存在感である。 だから、上海という舞台にはこれ以上の作家は思いつかなかった。 ねらい通り、パンウェイさんと意気投合。沸騰都市上海、人間も沸騰中だ。だからこの坂田先生の強烈さはきっと負けはしないだろう。 坂田先生、強烈ではあるが、人をもてなすと言うことにおいては繊細な気配りを感じさせる人である。料理の得意な陶芸家は多いがその中でも、坂田先生の料理はオリジナリティに富んでいて抜きんでている。ご馳走になるのは2度目だけど、いつも、人生お初、といった何かを出していただく。今回は、締めくくりの乳茸の(このあたりでしか採れないキノコらしい)おつゆ。昆布も鰹節も使ってないというおつゆの何と深い味わいだこと。デザートの梨のシャーベットもお手製。 蜂蜜とるために、ミツバチまで飼い始めたのだとか。蜂蜜は今度のお楽しみに。 とっぷりと日が暮れて、お腹も、仕事もいっぱい。いい一日だった。 工房の前で坂田先生この内側に金箔を貼った鉢、直径が90cm位ある 工房のある杜はさわさわと風が渡り、生き返る気分。 2009.08.12 Wednesday
ブログ始め
ようやく晴れた。大雨、地震・・何という夏だろう。
災害で多くの犠牲になった方々がいる。その数の何倍もの悲しむ家族、人々がいる。 昔、伊勢湾台風の時、母がニュースを見て涙を流していたのを覚えている。まだ小学生だった私は、その時初めて母の涙を見た。 今、wikipediaで調べてみたら1959年、3000人以上の犠牲者があったとの記録。あの台風以降、川の堤防などの整備は進んだのだろうが、自然の前に人は何と無力なのだろうか。 阪神淡路大震災も5000人以上の命を奪った。それより前、自然災害ではないが、原爆もある。焦土と化し何十年もの間草も生えないと言われたが、今、表面上は広島、長崎は緑豊かな町である。 それらは自然の再生力もあるだろうが、人が復興に尽力した結果でもある。 人は自然の前に非力、けれども、人の前に進めようという意識が働いたとき、何と大きなエネルギーで再生を果たすものだろうか。 このブログは、あっかるーく始めようと思った。けれども、この災害ニュースのタイミングだ。あっかるーい気分になるはずもなく。 ごくごく個人的なことだけど。 1999年夏、そうちょうど10年前、100年続いた家業を任意整理し、身一つで、郷里を離れて人生をリセットした。 身も心もぼろぼろだったと今振り返って思い出す。けれども、どこか解放感もあり、小さなフラットで、50歳のひとり暮らしを始めた。人のネットワークも、経済的にもゼロに近い状態でのスタートだったが、不幸せと感じたことは一度もなかった。心細かったけど。 そうして初めてのお正月、阪神淡路大震災から5年たって、というテーマのニュースばかり。 あの、神戸の人々のニュースにどれだけ力をもらったことだろうか。 5年たったら私も少しは復興してるだろうか、と。 家業が崩壊したのは天災ではない。けれども、やはり当事者にとっては天災同様の出来事に近かった。 神戸の人たちに力をもらい10年たった。 復興は出来なかった。でも、自分の新しい生き方の基礎は作れた気がしている。 今、ようやく、ちゃんと仕事をしていくだけの最小限の人のネットワークが出来たし、親の七光りでなく、良くても悪くても自分の実力と言い切れる。 60歳、やっと自分の時代が来たと思っている。だから、仕事用のHPを準備中だ。 やりたいことも、出来ることのフィールドも広く持ってるが、このHPは、やるべきことに絞り込むつもりである。 さてさて、といっても・・・ 続きは又
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